2017年7月20日

プーさんを探せ

中国では、習近平主席がディズニーの人気キャラクター「くまのプーさん」になぞられることを不快として、ネットから画像や言葉が削除されているというニュース。プーさんだけで無く、ドラえもんのジャイアンや、ジャスミン革命、さらには先日亡くなられた作家の劉暁波氏等、中国のネットには「存在しない事柄」が幾らでもあります。それは、彼らの社会体制がそう言うことを前提に統制を維持しているから必要悪という説明も出来るだろうし、国民が納得しているならば、それは外野がとやかく言うまでも無いという意見もあるだろうけど、でもその中国から年何何百万人何千万人という人が出ていくわけだし、多くの人が外からも入るわけで、そういう状況の中でも均質化同質化せずに独自的な「システム」を維持することを最優先する事って、やはり独裁だと思うけれどなぁ。

日本では、首相をヒットラーになぞらえても批判されず、逆にそれを問題視すると非難される。届出をすればデモをする事も可能だし、そこで何を言おうと基本的には許される(と言うか、無視されるという方が正しいのか)。そんな自由な社会にいてひび生活しているのに、一寸したことで相手に白か黒かを迫って強いる。でも、それを政府がやっている中国やその他一部社会主義国に対しては何も言わない。プーさんですら許さない社会に生きることが幸せと感じることは、本当に幸せなのだろうか。一方で、何でもかんでもヒットラーになぞらえれば批判になると考えてそれが許される社会というのも異質なわけで、ちゃんとこれはこれあれはあれという是々非々の境界線が共有されていない社会も、またある意味自由を振りかざした独裁独占の社会じゃ無いかと思う。

ネットの名言に「(都合の悪いことなどを)消せば、増える」というのがあるけれど、結局一つの言葉や事象を削除して無かったことにしても、その存在自体が抹消されない限り、それを代替する言葉や事象はどんどん変化して生まれてくるんですよね。プーさんが駄目なら、カバになるかもしれないし、太った猫が代わりに登場するかもしれない。逆にのんびりしたプーさんの反対で、キリッとしてテキパキした筋肉ムキムキのキャラクターが反語的に登場するかもしれない。そうやって、どんどんキャラクターを削除していくと、とうとうオリジナルの習近平氏の存在自体も削除しないと辻褄が合わなくなってきてしまうしれない。そんな社会のとっかかりみたいなものを、最近のいろいろな所謂「リベラル」とか「左派」と呼ばれる人達の過激な活動を見聞きすると感じるわけですが。それでも、中国のように強大な権力で統制されているわけでは無いので、日本では彼らも好き勝手出来るけれど、それが続くとやはり社会的な揺り戻しというか反動が起きて、彼ら自身が非難される逆の立場になる時期が遠からず来ると思う。民主主義というのは、良くも悪くもそういう左右の振り子を経験して、みんなが望ましいと思うところに収斂していくものだし、暫く収斂した後にやはり変化を求めて再び左右に振れ始めて、時には大きく乱れて、でもまた収斂していく。それを繰り返していくものだと思うから。中国のように、振り子は存在しても、それが左右に振れることも動くことも許さずに常に一点に固定しておかなければならない状態は、ある意味「安定」であるけれど、別の見方をすれば「硬直」でもあるし「固定」でもあるわけで、それを望む人は決して多いとは思わないのですけれどね。

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