2017年5月12日

AIが全てでは無い

ITmediaの記事から、ルクセンブルクでのワイン製造農家の話。この話が全てでは無いと思うけれど、AIが進出して色々便利になることはあっても、それが全てでは無いことは、これまでの産業社会が機械化されてきた歴史を見ても同じ事。勿論、単純作業を置き換える「機械化」と、ある程度情報を処理しつつ知識作業に近い判断をする「AI化」は、種類も内容も異なるものではあるけれど、自分の仕事の一部を代替させるという事は同じ事は、後はその作業の難易度に応じてどこまで任せて、どこまでは自分で賄うかという事だけ。

ここで問題になるのは、それによって自分が楽する、楽になるのではなく、単純作業や定型的な作業を代替させた分、その空いた時間で残りの仕事の効率や品質や内容を昇華させて、より高い付加価値を生み出さないと、結果的にAI化の意味が無くなるという事。コラムでは「アーティスト」という言い方をライナリーのオーナーは言っているけれど、まさにそんな感じでしょうね。

例えば日本人の主食であるお米にしても、低価格で日常普通に食べるような価格帯のお米なら、AIや自動化機械を使用して、若しかしたらほとんど機械化して収穫まで可能かもしれない。でも、所謂ブランド米で、それこそお米の出来具合から粒の状態に水分含有量の平準化とか、それこそこだわって作るようなものは、どうしても人の手を介在させないと無理。でも、その分付加価値米として価格的には高く販売可能だろうから、利益は大きくなるわけで、これまでならお米を作るか、他の野菜を作るかというような選択肢だったのが、自動化でお米を作るか、手を加えて付加価値米を作るかと言う選択しに変わってく訳です。これって、日本の産業や労働環境どこにでも現れている状態なわけで、最近の残業時間の問題もその一例だと思うけれど、多くの仕事がこれまでの「何時間仕事をした」という量の仕事が、「どんな仕事をした」かという質の仕事にどんどん変わってきている。それを理解しないと、今の社会では取り残されるのでは。今はまだ古い会社も多いから何とかなっていても、後5年とか10年もしたら、多分会社組織自体が今のようなものとは事なり、極端な話個人ワーカーの有機的な繋がりで、その期間や仕事の内容で毎月組織が変わりつつ一つの製品が生まれていくような仕組みになるかもしれない。

世の中は、結局単純労働集約的なものは今の日本では厳しくなり外に出ていき、より付加価値の高い仕事を国内でやるようにならないと日本の経済も伸びていかない半面、どうしても色々な理由でそこまでの付加価値労働が出来ない、やれない人も沢山いるわけです。そう言う人達にも、ちゃんと仕事をして貰って勤労意欲を維持しつつそれなりの報酬も得ることが出来てちゃんと生活出来るような仕組みも考えないといけない。例えば、何かを繰り返すような単純作業は、そのままでは機械におきかわるかもしれないけれど、形状とかサイズにかかわらず対応出来るように人間が担当するとか、あるいはその目的に応じて最適のパッケージ、例えば贈り物なら花柄、不祝儀ならシンプルなものとか、そういう部分での付加価値は考えないといけない。結局は、自分が出来る範囲で自分のやりたいことを最大限出来るように、それ以外の作業をどれだけ自動化する機械化するかというところをしっかり見極めて、ビジネス全体のスキームをこれからは考えないと駄目という事ですよね。それがワイン造りなら楽しいかもしれないけれど、そうで無い場合でも苦しみながらでも何か面白い身を見つけて努力しなきゃいけないところが、なかなか社会生活の厳しさを感じるところでもあるんでしょうね。

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