2017年2月5日

産学軍共同研究

先週の話題の一つが、日本学術会議での防衛省からの研究支援に関して。所謂「軍事研究」を受け入れるのかどうかという話で、平和好きな人から見たら悪行の限りにも見えるのだろうけど、別に軍事研究は武器の研究だけするわけでは無く、よく言われるようにインターネットは軍事通信網からの発達だし、GPSも軍事技術の一部を民生用に開放しているに過ぎない。私も、超弩級の破壊力を持つ兵器研究が望ましいとは思わないけれど、これまで以上に効率的なエネルギー研究とか、高出力のエネルギー研究は、一般にも利益が大きいはず。原子力がその最たるものだと思うけれど、結局はその技術や研究が善悪を決めるんじゃ無くて、最終的にはそれらを使う側の「意思」が善悪を決定するというのは歴史が証明している話。そういう意味で、大学側で研究項目を取捨選択すればいいわけで、その中で自分達の目的に適う物、あるいはそういう方向に向けることが出来るテーマに関しては積極的に受け入れていっても良いんじゃ無いかと思うわけですよね。産学協同研究だって、その産業界に対してのゆちゃくとは言わないけれど、優遇措置になるというのは、大学が公平的な存在というのであれば一寸おかしい気もするし。

あるいは逆説的に言えば、そのまま防衛省なりが研究を進めると歯止めが掛からなくなる可能性があるような場合には、逆に大学側がそのテーマの主導権を握って管理する、と言うのもある意味「平和的研究」に相当するんじゃ無いだろうか。それは、攻撃力に対して抑止力として受託研究をするという事もあるんじゃ無いだろうか。例えば、BC兵器対策して、生物・毒物フィルターの研究、解毒剤の研究、センシング技術の研究等は、自分達を将来的に守る「武器」になる一方、今戦闘状態にある世界の紛争地域に対しての抑止力にもなるかもしれない。福島の原発事故にしても、事故の大きさから反原発という考えが広まることは理解するにしても、それ故に全ての原子力技術を否定して即停止させるというのは極端な話。原子力・原発を無くすのであれば、その為に必要な技術を加速させる必要があるわけで、その為には今こそ原子力技術への人的経済的投資を拡大するべきでは。それなのに、反原発の風潮で原子力関連の学校や学部部減ってしまっては、今の原発をそのまま残して廃墟化させるしか無いと言うことで、それって今以上に原発の被害を拡大させるだけ。

あと、この会議では科学的な観点、理系的な視点での発言だけのようだけど、例えば大学での文系の授業でも、日本の戦争責任を言うのであれば、何故そうなったのかという背景研究を進めないと、いつまで経っても「日本人が悪かった」という立場での話しか生まれない。その時の世界の情勢や、その時の物の考えなどを理解した上で、だからこう言う醸成が生まれたという理解をしないと、現代の考えを当時の情勢に当てはめても正しい答えは得られないでしょう。でも、日本の大学の文系の人達は、一寸違う気がしますよね。軍事技術と言うと、どうしても理系的な考えが主流になりがちだけれど、それらハードの面だけで無くソフトの部分であるところの大学研究も、この機会に少し考え直した方が良いんじゃ無いだろうか。大学が軍事を管理出来ると驕り高ぶることは問題だと思うけれど、だからといって単に拒絶するだけでは大学としての責任を放棄することでは無いだろうか。

よくマスコミは「第四の権力」と言って「報道の自由=権力の監視」をうたうけれど、専門家集団である大学や技術者集団あるいは社会学とか人権的な文系的な集団は「もう一つの権力=監視役」として、科学技術やそれらの運用というような社会基盤に対しての責任者として存在価値を高めていくというのも有りだと思うんですよね。実際、アメリカの大学などはそういう傾向があるように感じます。まぁ、日本の軍事研究は拒否しても、他の国の軍事目的のために知らないうちに利用されていた、と言う事だけは無いようにして欲しいけれど。

0 件のコメント:

コメントを投稿