2016年11月14日

Politically Correctness

トランプ氏の米国大統領当選後、荒れている米国国内。その余波は日本にも来ていて、所謂「リベラル」と呼ばれていた人達や、その傾向のあったメディア等はあたふたしている雰囲気。そんな中で「PC (Politically Correctness)」が凄く話題になっていて、その理由が行きすぎたPCに対して鬱積していた有権者がトランプ氏へ流れたという理由から。

最近でこそ日本でもPCは考慮されるようになってきたけれど、米国では私が始めて出張で渡米した30年以上前からすでに「PC」は存在していて、日本で使われている語句でも米国ではアウトという事がしばしば。例えば日本では普通に"Handicap"という言葉は普通に使われいたけれど、米国では"Disabled"とか"Disability"いう言い方がPC的に正しいと言われていた時。それ以外にも、人種を表すような時には「××系アメリカ人」という言い方をしないと駄目とか、その当時からすでに色々な言い方が有り、日本から来たばかりの自分には戸惑う事ばかり。

最初は「流石アメリカ、自由と平等の国」と感心したんですが、暫くして正直なところその考え方には賛成するけれどその言い方は適切なのかと疑問を持つようになりました。例えば"Handicap"と"Disabled"という対比では、前者は元々持っていない、最初から差別・区別があるという意味合いだから問題なわけで、そうでは無い与えられているけれど使えないだけだ、と援護するような意味合いが後者の言葉なんだろうと思います。暫くすると気がつくんですが、アメリカでは余り手足が不自由な人というのは日本ほど「障害者」という意識が内容で、"Handicap"という言い方をするのはどちらかというと知的障害者とか、身体的障害でも車いすとか解除が必要な重度な人に対して使うような気がします。だから"Disabled"という言葉も使われるのかなと個人的には感じます。でも、それってある意味逆差別というか、持っているのに使えないというのが「平等なのか」という疑問も。

さらに年数が過ぎると、今度は知的障害の場合には"Gift"とという言い方も聞くようになりました。つまり、それも個性、紙から与えられた個性、という意味合いなんだろうと思うのですが、流石にここまで来ると一寸行きすぎかなと思うようになります。そういう人でも、例えば芸術的な分野とか、記憶力とか、優れた能力や技量を持った人も多いけれど、それを言い出したらどんな人にも"Gift"はあるわけで、そう言うことを言い出したら切りが無い。個人的に"PC"って正しいのかと感じるようになったのが、もう20年くらい前年に何度も仕事で米国に行くようになり、向こうの家庭にも入ったりしてそれなりに普通の生活なども知るようになった頃でした。

誤解を恐れずに言えば、必要な事は「言葉」では無く「気持ち」なんですよね。差別的と言う事で、昔は普通に使われていた言葉が今では自粛して使われないようになってきているけれど、その言葉を使わなかった辛いってその言葉が意味していた含有していた「意味」まで消えるわけでは無い。本当にその言葉が示していた行為や考え方が無くならない限り、あるいはちゃんとした理解が社会の中に浸透しない限り、結局はその言葉は消えてもまた新しい言葉や言い方が生まれてくるだけ。勿論、そう言う言葉にすら傷つく人も沢山いる以上、だから言葉は自由に使って良いと言う事にもならないけれど、一律にその言葉は駄目ということではなく、それ以外の無限の言葉同様適切に使うべきと言う事だけでしょう。問題は、考え方や気持ち。どんなに言葉で綺麗な事を言っても、その裏の気持ちが疚しければ無意味なわけで、そういうところをちゃんと理解した上で、色々な人と付き合うべきじゃ無いかと思うんですけどね。"PC"を声高に叫ぶ人ほど、その言葉狩りに近い傾向を強制するだけで、実は本当にその"PC"が必要な人達の事は考えていないんじゃ無いかといつも感じます。だから、結局は不信感しか残らず、いつまでたってもこの問題が解決されないのでは無いかと。

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