2016年6月6日

デモ

日本語の「デモ」、英語では"Demonstration"は、何らかの示威行為・運動をすること。一般的には、同じ主義主張意見思想などを持った人達が集団でそれらの事柄を掲示表明しながら移動すること。日本では、どちらかというと少数意見、あるいはマイノリティーの人達が、それらの意見や立場を理解して貰うために実行することが多いように感じますが、それらの行動に対して反対の意見を持つ人達、あるいは多数でそれらの行動を阻止することは、その主張の内容や種類によってあってはならないこと。

今回の川崎のデモに関しても、彼らの主張に同意する部分はほとんど無いけれど、少なくとも通常の手続きを通して認められたものである以上は、その権利は行使されるべきもの。それに対して、反対意見を持つ人達が集団で阻止行動を実行して、本来認められるべきでも行為が中止に追い込まれるというのは、その阻止行動をした人達が日頃主張している「力による強行」とか「多数派の横暴」とも言えるものでは無いだろうか。デモ主宰者の主張に「100%反対する」ことが出来ない理由も、それ対して反対をしている人達の過激さと自分達の行動は100%正しいのだから何をしても許されるとでも考えているような傲慢さを感じるから。そのデモに反対するのであれば、そのデモよりも何倍も大規模で且つ内容に納得できる主張をするデモをすれば良いだけの話し。勿論、同時刻に同じ場所でデモをすれば衝突するだけだろうから、それは考慮されるべきだけれど、数や力で行動その物を押さえ込むのであれば、今度は自分達が同じ事をやられても文句を言えないことになってしまう。

「平和」を声高に言う人達ほど「過激」であったり、「立憲主義」という割には、「ルールや法律」は守らなかったり、そういう意味で単に示威行為をすることだけが目的みたいな人達にも、何ら共感するところは無いんですが、ちゃんと届出をしてデモをしようとした集団よりも、多分無届けでかつ交通の往来を妨害しながらデモの実行阻止をした集団、どたらがその行為自体を見て正しいのだろうか。自分達の言っていることが正しいから、正義だから、何をしても許されるという発想は、それこそ彼らが悪しき例として良く上げる「ヒットラー」とか「ナチス」の発想だと思うんですけどね。

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