2016年6月20日

望まれない追悼

沖縄で開催された、先日発生した元海兵隊所属軍属による女性殺害事件の追悼会。事件そのものは、全く女性取っては落ち度が無いのに命を奪われた残念な事件で、この犯人は厳しい処罰を受けるべきではあるけれど、「元海兵隊」という事で逆に不必要にあるいはある意味意図的にフレームアップされていることが気になります。特にこの追悼会、ご遺族が四十九日の法要をしているのとは別に、有志(これがまた胡散臭い感じだけれど)が開催したものらしいけれど、それって遺族は承知しているのか、あるいは望んでいるのか? 確かに、元々の沖縄の感情を考えると、軍属、元海兵隊と言う事でヒートアップすることも理解は出来るけれど、でも軍属って一般の沖縄県人で仕事をしている人もいるわけだし、現役の海兵隊が起こした事件ならまだしも、そうで無い人間が起こした事件を恰も現役のアメリカ軍が起こしたような印象を植え付けるのはどうだろうか。

機能の夕方のとある番組でも、海兵隊の厳しい訓練のビデオを流して、以下に戦うためだけに訓練をしているかという話をしていたけれど、それとこれとは別の話では。沖縄というだけで、凄く偏った歪んだバイアスが掛かっていて、それを誰も指摘しない怖さがありますね。言ってみれば、安全法案を「戦争法」といって、怒るかどうか分からないような危険を声高に指摘して不安だけを煽る、あの人達と同じような印象をうけてしまいます。

戦争は嫌だし、争い事は可能ならば回避したい。ただ、世の中の全ての人が同じように平和を考えているわけでは無いし、その達成方法にしても考え方が違う人達と同居しているわけで、どうしてもある種の摩擦は発生します。その摩擦を出来るだけ少なくする方法はいろいろあるけれど、一番簡単なのは摩擦を発生させる二つの集団のうち、一方の集団が全く何もせずに消滅すること。これが、所謂巷の平和を声高に言う人達の方法だと思うけれど、それならそれで先ずは自分達が消えて欲しいところ。もう皮質が、相手を圧倒して摩擦を起こさせないようにすること。これが今の中国が目指している方法で、力尽くで解決する方法で、これが世界のほとんどの国の人が回避しようとしていること。もう一つの方法は、当事者同士が、摩擦が存在することはお互いに認識した上で、その摩擦を出来るだけ最少化する方法を相互に考える、あるいは別の手段を考える、という事を進めること。所謂民主主義の世界では、首脳会議とか裁判とか協定とか合意とか、いろいろ形で妥協点を見つけるわけです。でも、それをしない集団が世界には幾つかあるわけで、それが問題の根源なのにそれを認めようとしない人達がトンチンカンな事を言いだしてしまう。

トンチンカンならば、理解が足りない、認識が違うなど、まだ考えの不備を指摘すれば解決策が見つかる可能性もあるけれど、そう言うことは承知の上で自分達の主張や利益を最大化するために、意図的にそういう部分を見て見ぬ振りをする人達がいるわけですよね。そういう集団が一番質が悪く、一番あくどい気がする。いゃ、何処かの地方で開催されたとある集会がそうだと言っているわけでは無いけれど、自分の意見と同じ・反対問わず、その主張の合理性なり整然とした理由が理解出来ないというのは、やはりそういう説明が出来ない別の理由があるからなんじゃないかと思うわけです。で、一番の被害者は、望みもしないのに、そういう行動の最大の理由に勝手に使われてしまっている被害者本人と遺族の人達なんでしょうね。弱者を言う物が、さらに弱い立場の人を利用するというのは、昔からある話だけれど、何か釈然としない。

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