2016年5月20日

「下流老人」と「貧困児童」

「下流老人」と「貧困児童」という二つの言葉。世代は違うけれど、どちらも十分な収入が無く生活に困窮している人達を指す言葉だけれど、その事実は認めるけれど、それぞれの言葉の使い方がちょっと嫌らしいなと感じます。どれだけの人がどの様に困っているのかは、いつもアクセスしている永江さんのサイトに詳しいので省略するけれど、なんで「貧困老人」ではなく「下流老人」なのか、なんで「貧困家庭」ではなく「貧困児童」なのか、それが個人的に引っかかる点。

そのシステムの破綻が言われて久しいけれど、それでも日本は年金制度や社会保険制度があり、必要最低限の生活は出来る社会のはず。ところが、世界一の長寿国となり、言い方は悪いけれど長生きしすぎた受給世代がどんどん増えてしまい、資金供給が追いつかなくなってきたこともあり、社会の生活費の高騰に合わせて受給金額を上げることも出来ず、結果相対的に生活の質を下げざるを得ない人が増えているのが現在。勿論、ある程度の蓄えがあっても、例えば急に病気になったとか、熟年離婚をして収入が激減したとか、コラムにも書かれている理由はあるにしても、そこはやはり将来を見越して準備してきた人とそうで無い人の差というのもあるのでは。で、「下流老人」という造語です。藤田孝典さんという方が作ったらしいのだけれど、なんで「下流」なのか。色々な理由から所得が減っていき、捕まる補助も無く川の流れに流されていくイメージなのだろうか。この方が2015年に書いたタイトルに登場したのが最初らしいけれど、何かビジネス的な臭いがするなぁ。ある程度衝撃的な言葉、意外な言葉、気を引く言葉を使って、世間の注意を集めて問題解決に繋げるという意図も理解するけれど、既に同じような言葉が有り、同じような状況が昔から存在しているのに、今更新しい事象のように言葉を発するのはどう言う目的なのか。例えば、現行の年金制度が破綻してしまい、全く年金収入が期待出来なくなってしまうような事態が発生したならば、それによって困窮する老人世代を例えば「流浪老人」とか言うのはある意味正しいし、新しい定義になるかもしれないけれど、「下流老人」って、単にその老人世代・家庭の地位的な事を強調しているだけのような気もします。それが一つ目の違和感。

もう一つの「貧困児童」。この言葉を聞いて思ったのは、「親は裕福なのに子供が貧しいの?」という素朴な疑問。正直なところ、普通は「貧困家庭」であって、親が困っているから子供も困っているはず。それこそ、親が離婚して子供が一人で生活していて、その子供が養育費も仕送りも無くて困っているなら、それなら「貧困児童」と呼ぶのも分かるけれど、普通は片親かもしれないけれど家庭にいるはずでは。これも「貧困家庭」は昔からある言葉だし言葉のインパクトもなれてしまっているから、敢えて子供・児童に焦点を当てて「貧困児童」という言葉を作り出しのでは無いかと想像するわけです。それはそれで、問題に注目して貰うためにも、あるいは問題解決が早急に必要な部分を強調するという意味でも必要な事ではあると思う半面、本当は貧困家庭を救うべき話が、何か子供の貧困、子供の人権見たいな、凄く問題点の焦点が偏った話しになっている気がします。本来なら救うべきは「貧困家庭」であり、「貧困児童」はその一部のはず。でも、話題としてのインパクトを考えると「貧困児童」の方が、子供が対象といういみで大きく感じられます。でも、それって目的と手段が違ってこないだろうか。子供を救うために、例えば教育費の無料化とか、給食費の無料化とかすることも可能だろうけど、それでも「家庭」や「家族」が貧困から抜け出られないと、結局子供の貧困も解決しないはず。短期的な解決策として、今困っている事に対してのアクションとしてはそう言うことも必要だろうけど、中長期的に対策するためには、ちょっと焦点が違う気がします。本当ならば、マスコミとか行政がそう言うことをちゃんと言わないといけないんだろうけど、結局どちらの場合もよりメデイアが使いやすい言葉だけが流れて言っている気がする。結局、本当に解決しないといけないところが曖昧のまま、対処療法を繰り返すだけで資源を浪費して時間を浪費して、結果的に何もかも間に合わなくなるような気がします。その時には、誰が責任を取るのだろうか。

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