2016年3月14日

きつい言葉が必要な社会

昨晩、たまたま夜遅くCX系の「Mr.サンデー」の終わり頃にチャンネルが合った時、番組最後にMCの宮根誠司氏と、コメンテーターの木村太郎氏(以前は、急逝された竹田圭吾氏とのやり取りでしたが)との、〆のやり取り。最近話題になっている「保育園落ちた日本死ね」の件で木村氏がそのブログ全部を示しながら、所々に使われている「死ね」とか「クソ」とか「じゃねーよ」という、正直汚い言葉遣いに関して、「ここまで激しい言葉が入っていたから注目された」というようなことを言われていました。正直聞いた直後には「木村さんらしからぬ、煽るような言い方だなぁ」と思ったんですが、そうなると、ますます過激な言葉遣い、過激な内容で目立とうとする人達が増えて、それって今問題になっているような「ヘイトスピーチ」にも繋がる思考じゃ無いのかなと。

木村さん自信は以前、ヘイトスピーチには反対だけれど法規制にも反対、と言うようなことを言っていて、私もこの考え方には賛成で、実際そこに存在しているのに無かったことにすることで解決するというのは何も解決していないことなんですよね。最近では、昔使われていた言葉でも現代では「差別的」と言う事で使用禁止に近い自粛措置を強いられていること場も多いけれど、その言葉を無くしたとしても、その言葉に示されてきた行為までは無くならないわけですよね。結局は、また新しい言葉が生まれるか、昔の言葉が今度は見えないところでより陰湿に残っていくだけじゃ無いだろうか。

アメリカでは"PC (Politically Correctness)"と言って、使うに相応しい言葉・そうで無い言葉の区別が、ここ20年位の間に急に広まってきたように感じます。例えば、手足や耳目が不自由な人を、昔は"Handicap"という言い方をしたけれど、その頃には"Disabled"という言い方をするようになっていました。例えば、手が不自由な場合、Handicapと言ってしまうと、それがその人に対して否定的な状態を表すような言い方、あるいは不自由で無い人と比較して劣っているような意味があると言うことで、「元々同等に備わっているけれど、今は使えない(Disabled)だけ」という、ある意味婉曲表現を使うようになっていました。更に最近では、特に知的障害等の場合"Gift"という言い方もするようで、これにはちょっと驚いてしまいました。HandicapにしてもDisabledにしても、否定的な言葉だからもっと肯定的な言葉にしたいという気持ちもあったのだろうし、実際そういう子供さんと生活していて逆に自分の方が教育されて得る物があると言う意味もあるかと思うけれど、英語ネイティブ出ない、文字通り言葉の意味でしか解釈できない自分のような人間が聞くと、ちょっと「えっ?」と感じてしまうのは正直なところです。

ただ、「言葉は生き物」と考えれば、これからまた違う言い方が生まれてくるかもしれないし、時代が進むと共に昔の言葉とともにそういう考え方とか記憶も消えていくんでしょう。その中で淘汰されて残っていく言葉が、今回のように厳しい言葉ばかりだとちょっと悲しい。もっとも、「死ね」という今は罵倒語であるけれど、あと何十年も経過したら「死ね」という言葉が「最初からやり直せ」とか「もう諦めて止めなさい」というような意味で使われるようになっていたりして。きつい言葉はその瞬間は印象に残り、だから更にきつい言葉が生まれて使われていくけれど、そうなると結局は善負がきつい言葉になって不感症になり、元々のキツい意味では使われなくなっていくじゃ無いだろうか。例えば「超スーパー死ね」とか。で、逆にきつさでは無く滑稽さだけが奇話だったりして。

そうそう、今回の匿名ブログがこれだけ話題になっているのは、確かにその文体の厳しさとか内容がタイムリーだったと言う事もあるだろうけど、これ幸いと政治利用している人達もいることも忘れないようにしないと。それは、言葉の善し悪しとは全く別の事ですからね。そういう意味では、使われている言葉では無く、その内容に注目することは良いけれど、それを裏で画策している「力」には更に厳しい目を向けないといけないでしょうね。

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