2016年1月20日

自縛するレッテル貼り

国会での参院予算委員会で、社民党の福島瑞穂氏が首相質問し、いつものエキセントリックな調子を抑えきれないのか「ナチスの授権法と同じ」と批判し、流石に安倍首相も気色ばむという記事。最近は、他にやることが無いのか、あるいは攻める材料に乏しいからか、何か反論するときにはやたらと「ナチス」だとか「レイシズム」だとか「戦争なんとか」とか「徴兵制なんとか」とか、刺激的な言葉で相手を罵倒するような場面が多く見られます。彼らとしては、過去のそう言う比差何記憶に結びつけて相手を攻めているつもりなんだろうけど、今ひとつ内輪受けで終わっているのは、実際とは乖離しているのに言葉だけを進めようとしているからでは無いだろうか。

例えば「ナチス」発言にしても、当時のドイツは国民が熱狂していたことがああいう独裁政権を誕生させる原動力になっていたと思うんですよね。でも今の日本は、確かに自民党と公明党は過半数の多数派ではあるけれど、支持率は30%台。半分もいっていない。最大多数は無党派層だったりするわけです。その中でどうやったらああいう独裁体制みたいなものが生まれるのか、その説得される材料も無く単に言葉だけを激しくぶつけるだけでは、誰も振り向いてくれない。

「レイシズム」に関しては、確かにいきすぎた言動や行動があったことも事実で、それは正さないといけないけれど、最近の様子を見ると逆にそれが行きすぎて、特定の団体や国民に対しての発言全てを制限しようとしている雰囲気すら感じられる場面も。重要な事は、言葉を制限することでは無く、個々までは許されるけれど、ここからはダメという境界線を共通認識することですよね。そうで無いと、韓国での加藤産経新聞元支局長の裁判のように、記事の内容では無く記事を書いたこと自体が問題視されて訴えられてしまう。あれは、日本に対してだから、産経新聞だからという側面があることは否定出来ない訳で、それもいってみれば一緒の「レイシズム」のような気がします。

危険な事を「危険」と言う事は大切だと思うけれど、だからといってその危険度を過剰にも過小にも言う事は間違っていると思います。何故それが危険なのか、その程度はどのくらいなのか、当然ピンポイントで評価できないからどの程度の範囲・誤差があるのか、その結果どう言う影響が想定されるのか、その対策はどう言う物が考えられるのか、そう言う筋立てた提案・意見が重要な訳で、単に「危険だから危険」というだけなら子供でも言えるわけです。ナチスと同じと言われた首相は、当時と違いちゃんと国会での歯止めもあると反論して、それに対しての福島氏の反論が分からないけれど、それで納得したのか、それでも「ナチス」と呼ぶのか、その当たりをメディアちゃんと報じて欲しいですよね。それによって国民は、その人の国会議員としての資質を判断するわけだから。

今、こう言う類の言葉をある意味気軽に使っている野党やそれに関連する所謂「市民団体」といったグループも、安易にそう言う言葉を使っていると、そのうち自らに対しての言葉になる事を自覚しないと。口から出た言葉は、必ず自分に返ってくる物ですし、ましてや情報システム・インフラが発達している現代では、過去の発言の記録は残っているし、いつでも検索出来るし、それが誰でも可能な社会なんですからね。

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