2014年9月3日

メディアの神髄

味方陣営(?)の新聞社やメディアからも批判を浴びる朝日新聞。ジャーナリストの池上章氏のコラムの内容が自社に対する批判内容ということで掲載拒否をしたら、池上氏が連載を中止したというニュース。朝日新聞自身が、自社のこれまでの報道内容や報道姿勢をどう思っているか知らないけれど、少なくともそれが同意だろうが批判だろうがメディアとしてそれを報道した上で、間違いなら間違いと、誤解なら誤解と、ちゃんと説得力ある内容の記事で反論するのが、メディアのメディアたる存在意義じゃ無いの。政治の世界に対しては、よく「真偽不足」とか「国民の声を聞いていない」とか偉そうに書く訳ですが、自ら同じ事をしてちゃ駄目じゃん。先日も、週刊誌の広告掲載拒否の話が合ったけれど、まぁあれはお金をもらって掲載する(場所を貸す)商売だから、載せる載せないの判断は掲載する側に合っても良いとは思う。勿論、その理由がビジネス上の話とか一般的な公序良俗の話なら許せるけれど、単に自分達が批判されている記事が有るから嫌と言う子供の駄々みたいな事じゃ理由とは言えないけれど。で、今回の場合は、掲載紙側がお金を払って書いて貰っていた記事が気に入らないから掲載しないと言っている訳だから、例えばその執筆契約に「自社に対する批判は一切記載しない」というような条件が合ったなら理解出来るけれど、そう言う内容に触れる話が無いのに拒否したなら、それってメディアがメディアを否定していることにならないのか。

朝日新聞の主張やこれまでの説明には、全く納得もしないし理解もしないけれど、それでも「メディア」の端くれとして、あえて批判的な内容の記事も掲載した上で、いゃ自分たちの考えはこうで、ここの理由は幸田から我々はこういう主張をしている、検証結果はこうなった、と言う話をするなら、その態度は立派だと感じるけれど。読者に出来るだけバイアスの掛かっていない情報(必ずしも「正しい情報」では無い)を提供することも重要だけれど、読者が自信で判断出来るような比較できる情報を提供することも重要な使命だと思うんですよね。当然、自分達に不利な情報もその時は出さないといけない。でも、その場合でも、何故自分達はそう言う判断をしたのかと言う理由は必ずあるはずで、それを主張するのがメディアの仕事のはず。その上で、それが間違っていたのならば真摯に反省して訂正して謝罪するのが、メディアは言うに及ばず誰にでも必要な常識のはず何ですよね。

結局、はなから自分達が不利であること、あるいは自分達の主張の間違いに気づいているから、そう言う反論なり批評する事も出来ず、だからそう言う火種なる事は最初から取り除きましょうと言う判断があるんでしょうね。それって、どこかの党の機関誌とか、どこかの国の宣伝機関とか、あるいは相手の言うことや立場を理解せずに自分達のかってな信条や主張を一方的に送りつける「ヘイトスピーチ/カウンター」そのままじゃないの、と思う。

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