2013年9月14日

多様性ということ

「多様性」という言葉を聞くと、どうも「日本人は自分達の文化だけで無く、世界中に存在している多種多様な文化を認めよ」と言われているような気がして、正直ちょっと反発を感じることがあります。今回の件は、文化的背景から伝統的に入れている「入れ墨」を、北海道の温泉施設で「入れ墨禁止」ということで入浴を断られた、と言う話で、あの業界の入れ墨と、この女性の入れ墨とは「入れ墨の意味が違う」と言うことで多様性を認めよということなんですよね。

言わんとすることはよく分かるし、個人的にはこの女性に対しての理解も出来るのだけれど、日本人が多様性を理解するのと同じように、この女性あるいは周りの人にも「日本の文化」という多様性も理解して欲しいところです。国や文化が違えば、「良い入れ墨」と「悪い入れ墨」という違いも生まれてくると言うことも。じゃぁ、「良い入れ墨」だけ受け入れればと言う話もあるわけですが、その「良い」「悪い」の区別はどうすれば良いのか。「区別」が「差別」になってしまわないか、と言う事から、一番明確な「入れ墨の有無」という境界線を引くしか無い場合も考えられます。今回の場合は、やはり事前に確認しておくことが必要だったかなと言う気もしますね。

正直なところ、今回の女性の方と自分がばったり出くわしたら、やっぱり「えっ」と思うなぁ、この入れ墨だと。例え、それが伝統的な文化的背景のあるものと説明されても、やはり自分の経験や理解を超えたものであると、その通り素直に受け入れられないことも多々あります。そう言う経験を何度も何度も積み重ねていって、やっと「多様性」なるものは身につくものですからね。決して、知識や情報じゃ無いと言うことを理解しないと、「多様性」というかけ声だけで終わってしまうでしょうね。

もう一つ、多様性ということは色々なオプションとか方向性を持つことでもあるけれど、その為には先ずは自分の「基本」「根幹」をちゃんと持たないと、単にその時々の流行に流されるだけ、言われることに従順になるだけの危険もあります。だから、「多様性」とうものは世界共通では無く、日本なら日本の多様性が、アメリカならアメリカの多様性というものがあるんだろうと思っています。日本の文化自体、明治維新から西洋文化を取り入れて、それを日本のものに咀嚼してきた「多様性」があるわけで、そう言うことを忘れてはいけないでしょうね。今回の場合でも、大浴場は駄目でも、その時の仲間で利用出来る、個室のお風呂とか時間での貸し切りなら、という事もこれからの対策の一つとしては可能かも。その場合でも、「良い入れ墨」と「悪い入れ墨」の境界線はどうするのかという課題は残りますけど。

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