2013年6月7日

記憶がよりどころ

「棚上げ論があった」という野中広務氏の中国での発言が物議を醸し出しているわけですが、これって「本人の記憶」でしかないんですよね。例えば、何か外交的な文書に記録されているとか、さらにはその場に居合わせた第三者のメモ書きすらない。しかも、当時同行した人達からは否定する発言ばかりでているわけで、どうも胡散臭さが漂います。

仮に、当時そう言うことを日中相互に了解していたとすると、それって「密約」になるんじゃないのか? それなら、何故当事者である自民党以外の政党や政治家は追求しないのだろうか。核持ち込みの密約は許せないけれど、領土問題はOKということなのだろうか。あるいは、だれも尖閣諸島が中国領と思わないから取り合わないと言うことなら、そう言う立場を明確にすべきだと思うけれど、与党以外ではそう言う動きも見えてこないし。結局は、言いたいことはあるけれど、野党にとっては与党を利するだけだから黙っていると言うことなんでしょうね。

既に政界を引退して、一個人である人間の「記憶だけがよりどころの発言」に頼らなければならない中国側の立場の厳しさも可哀想だけど、だからといって自分の立場を省みることなどしない国だけに、今後ますますあること無いこと言って攻めてくるんだろうなぁ。全くもってうっとうしいというか、面倒くさい存在です。で、同じようなスキームって、「慰安婦問題」にも感じる訳で、結局は当事者の証言しか無いのに、それだけであっても数が集まると、国単位で声を上げると「事実」に転じてしまう怖さ。

どちらも、当事者の「記憶」が根拠何だけど、「記憶」ほど頼りになら無いものも無いわけで、それだけで確固たる証拠となるなら、誰でも好きなことを言えてしまいます。まぁ、そう言う空虚な理由だけで国家を運営している国が二つ三つ近隣にあるのが、日本の不幸だよなと改めて認識するわけですが。

勿論、人間の記憶(力)は馬鹿にならない力を発揮する事もあるわけで、円周率を何桁も記憶していたり、過去の記憶を持っていたりという例は有るけれど、それってやっぱり限られた人が持つかなり限定された事だと思うんですよね。「記憶」って言うのは、情報と似たようなもので、時間と共に薄れていく・劣化していく・曖昧になる、もの。それって、そう言うことがあるから、悲しいことや辛い記憶も少しずつ癒されていくわけだし、楽しいことやうれしい事は、それが強調されていつまでも残っていくもんだと思っています。記憶は記憶であって、記録では無いわけですからね。

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