2013年3月7日

上から目線

アルジェリア人質事件犠牲者の実名報道について、朝日新聞社の「報道と人権委員会」の内容記事。もうね、読んでいく最初から怒りを感じる内容。事件直後の毎日新聞の話にも怒りを覚えたけれど、何でかと思ったら、この人達は「自分達には崇高な使命がある」という、上から目線で話をしているから何だろうなぁ。

この人達が分かってないと思うのは、「ジャーナリズム」「報道」「公共性」と言うような、「点の視点」でしか成否を考えていないこと。例えば、

実名が必要なもう一つの根拠は、それが情報を検証する際の手がかりになることだ。氏名がなければ、情報を検証する手立てがなくなってしまう。

という意見は正しいと思うけれど、でもそれを実行すべきタイミングは事件直後の遺族ですら混乱している時に必要なのか、ということ。一年も二年も後からでは情報が風化するだろうけれど、例えばそれがもう数日とか一週間くらいの猶予の後に実名を後悔しても、風化の問題はほとんど無いでしょう。その間に遺族の心の整理も出来るだろうし、中には犠牲者の生きた証としては何らかの記録を残すことを考えるかもしれない。そう言う、流れの視点から事実を正確に伝えることが、ジャーナリストでありメディアというものの存在意義のはず。でも、結局彼らが目指しているのは「スクープ」でしか無いわけですよね。1つは、自社の情報に対しての付加価値を高めてビジネスを延ばすため。もう一つは、他社・ライバル記者よりも早く情報を後悔するという、自己満足のため。

「死者の叫び」という言い方をしているけれど、仮にその犠牲者がその記者の親族だとか親友と言うのであればまだ理解する余地はあるけれど、全くの他人である記者・ジャーナリストが、何故犠牲者に一番近い扶養者・家族・親族の意思をオーバーライド出来るのだろうか。それこそ、ジャーナリスト・メディアと言う名前に対して驕りの気持ちの現れじゃ無いか。現実と報道の係留点として「実名」が必要と言っているけれど、そんなの彼らの詭弁ですよね。事件の中には、加害者・被害者の氏名以外にも、様々な重要な要素が絡んでいるはずで、そういうところを丹念に取材して解明すれば、幾らでも現実世界との接点は見つかるはず。単に、一番手軽に入手出来て、読者に対してのインパクトが大きい「犠牲者」という要素に甘えているだけの考えですよ。

メディアスクラムについて、

山中季広・社会部長 亡くなった方の名前や住所がわかり、各社が家の前に集まった。ただし、連日深夜まで入れかわり立ちかわりインターホンを押すとか、自宅の前に中継用のやぐらを組むようなことは防げた。スクラムには至らずに済んだと認識している。

もう、笑っちゃいますよね。例えば、自宅前に人が集まり、それが一人や二人じゃ無くて何十人という規模になり、さらには中継車とか日頃見たことが無いような車が何台も駐車していたら、ほとんどの一般的な人間なら、圧迫感なり恐怖感なりを感じるでしょう。あるいは、自分の家の前から中継とかされたら、それをTV放送とかで見たとしたら、そんな気持ちすら斟酌しない・出来ないこと自体、彼らの感覚が既にマヒしているとしか考えられません。インターホンを押さなかったから、櫓を組まなかったから、だからメディアスクラムは発生していないなんていう考え方が、現実離れしている考えですね。

高々三人による内輪の話し合いで、しかも「実名報道反対」という立場の人間が居ないような不均衡な人員構成での話し合いで、その結果「我々は間違っていなかった」という結論を出されても、日本海の向こうで「我々は正しい、間違っているのは日本だ」と言っているあの国とかあっちの国とかそっちの国見たいな、空々しさしか感じられません。そう言う世間の冷めた空気を、是非この機会に実感して欲しいですね。それが、現実と報道の今一番重要な「係留点」なんですから。

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