2012年12月6日

第三極

選挙活動が始まり、いろいろな政党が登場していますが、その中で話題を集めている政党の幾つかは「第三極」と呼ばれています。現・与党と、現最大野党(+αもはいるのか-笑)が「両極」で、それに続く勢力だから「第三の極」と言うことなんだろうけど、「極=きわみ」と言うのには疑問が。例えば、両極と同規模の組織なら、それは納得できるけれど、どこの組織もそんな規模の正当なは無く、ほとんどはぎりぎり政党要件を満たしているかどうかと言う状態。規模では無く、例えばその第三極の政党が、上位の両極の政党と並ぶか凌駕するような、意見なり公約なり、「山椒は小粒でぴりりと辛い」でも言うべき迫力・魅力があるかというと、そんなものも感じない。

特に、満を持して(?)最後に登場した某政党などは、あわや選挙にすら参加出来ないかもという失態を見せているわけだし。「来年春を想定していて、一週間では準備出来なかった」と良いわけをしていたけれど、それなら出るな、と言いたいくらい。準備不足の政党が、もし何らかの力を持ってしまったら、中途半端な活動しか出来ないじゃ無いの。大体、何年も準備期間があったはずの、現与党にしても、実際に政権を取ったらあの体たらくだし。

「極=きわみ」というのは、まさに他に比類するものの無い立場のことを言うはずなのに、三番目ともなると結構いい加減で、言葉が軽いなと感じてしまいます。高々二週間で、そういう有象無象の中から国民の代表を選ばないと行けないというのは、もしかしたら一票の格差以上に問題な事かもとちょっと思ったりします。一人区では、どうしたって一人当選するわけだけど、場合に寄っては「該当者無し」なんて言うことも選択肢にいれたらどうだろう。その分は、全国区に当選者に回すとして。まぁ、それはそれで問題か。

本当に、既存の両極に対して改革とか影響を与えられる「第三の極み」なら良いけれど、「窮み」であったり「際物」であったりしそうな雰囲気ですよね。民主党が政権交代をしたとき、既存の旧態依然とした政治システムが新しくなると多くの人が期待したけれど、結局大きなシステムを運用するにはそれなりの経験と知識が必要で、理想だけでは動かないことを証明し、期待値が大きかっただけに失望感も大きくなったけれど、この第三極も、同じように旧態依然とした勢力に対して、それを打ち破る新勢力という意識があったと思うんですよね。それが、今回の政党乱立とその後のドタバタで、一気に言葉の持つ意味・価値が下がったように感じます。そう言う意味で、責任は大きいな、と。

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