2012年9月10日

無責任な論評

夏の残暑はまだ厳しいけれど、何とかピーク時の電力不足を乗り切った今年の夏。でも、実際にトラブルが発生しなかったからか、こんな「電力は余っていた」的論評をよく見かけます。これって、言ってみれば体の良い後出しジャンケンみたいなもので、何も無かった後なら何とでも言える話。それを、個人が何か言うならまだしも、公の組織でもあるメディアがこういう記事を書くのは大衆迎合でしかありませんよね。

例えば天気予報で、「明日はにわか雨が予想されるので傘をお持ちください」と前日予報したけれど、結果的に雨が降らないと「なんで外したんだ」と勝手な批判をするけれど、それと同じレベル。工業とか産業は、いろいろな意味で安全係数やリスクを見込んで活動するものですが、それを無視して単純に積み上げた数値だけで「出来た・出来ない」を論じるのはナンセンス。それに、こと電力について言えば、供給量が間に合ったと言うだけで無く、そのコスト(電気料金)の話も重要なわけで、それらも含めて原発をどうするのか、再生可能エネルギーはどうするのか、現行の火力発電はどうするのか、総合的な判断をしないといけないはず。例えば、いま渇水が言われているけれど、じゃぁその状態でも水力発電には影響しないのかとかあるわけです。

例えば新幹線にしても、時速300kmで走行するためには、330kmとか350kmとか、それだけの安全係数を見ていろいろな仕込みも入れているし運用もしているから、あれだけ安全に利用できるはず。それを、300kmで走るなら、310kmとか305kmまでの安全係数を取れば良い、といったら、果たして乗客は安心して乗るんだろうか。それをやったから、中国の新幹線事故みたいな事が発生するわけですよね。その時には、こういうメディアは「何故十分な予防措置を執らなかったのか。安全の上にも安全を期するのが企業としての責任では無いか」みたいなことを書くだろうな。もし、パラレルワールドが存在するならば、猛暑の中で停電が発生し、様々なトラブルが発生したときに、これらメディアがどう言う論評を書くのか見てみたいですね。多分、ほとんどすべてのメディアは「何故もっと準備出来なかったか。電力会社の責任」みたいな事を書くんだろうな。その中でも、「それでも我々は脱原発、無駄を無くして耐えていこう」とか書くところがあれば、それはそれで拍手喝采だけど。何か戦争中の「欲しがりません勝つまでは」と同じスローガンに聞こえる。

0 件のコメント:

コメントを投稿