2012年7月18日

電気よりも命を

代々木公園に集まった反原発集会の記事。主催者としては、しまったと思ったことが二つあるんじゃないでしょうか。一つは、坂本"教授"龍一氏の「たかが電気のためになんで命を危険にさらさないといけないのでしょうか。子どもを守りましょう。日本の国土を守りましょう」の言葉。「たかが電気」と言ってしまったら、日産の広報は頭抱えているかも。もう教授のリーフのCMは流せないですよね。さらに、教授はもうシンセは捨ててアコースティック一本、それも電気を使わない生ライブ一本で行くのだろうか。その「たかが電気」で助かる命は、少なくとも止めた場合よりも格段に多いはず。

もう一つは、この日の暑さ。30度を超えて、この集会が終わった途端にクーラーの効いた建物に逃げ込んだ人は決して少なくないはず。原発は要らないかもしれない、でも電気は必要と誰もが思ったはず。じゃぁ、このまま原発を直ぐに止めてそれで間に合うのか、と疑問を感じた人も多いんじゃ無いでしょうかね。大体、代々木公園まで自宅から歩いたり自転車で来た人ばかりじゃ無いはず。車を使うにしても、電車にしても、電気があるから使えるわけですし。


記事にも書かれているけれど、本来一般の人が集まったと言われる集会にも、例によって労組とか組合とか、「動員」された人も多かったようで、よく電気会社が集会に自社の人間を送り込んだと批判するけれど、じゃぁその「やらせ」とこの「動員」どう違うんだろうか。大体、原発を止めて、電気を止めたら、その人達が仕事をしている会社だって倒れるかもしれない訳で、その時に彼らは喜んで止めてくれるんだろうか。それならそれで、日本が少し良くなる気がするが(をぃ)。


「原発反対」と言うことも大事だし、それはそれで一つの自由な主張ですけど、じゃぁ現実問題として今止めても廃炉までは40年は掛かる間にお金も技術も必要。さらに、その不足分を補うエネルギー手当もしなきゃいけない。自然エネルギー、再生可能エネルギー、結構だけど、実用化という意味ではまだまだ時間が関わるわけです。そう言うことも含めて、ある程度納得できるストーリーがあるならまだしも、単に勧善懲悪・白黒付けなきゃ行けないと言う気持ちだけで「反対」というのはどうだろうか。某コーヒー飲料のCMで「白黒付けないカフェオーレー」というのがあって、深いなと感心したけれど、世の中現実は"0"か"1"が割り切れない、いろいろな要素で出来ているんだから、それをちゃんと理解した上で主張しない限りは、たんにそのポーズなりスタイルに浮かれている無責任な行動としか、私は思えないですね。

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