2017年1月11日

数字を信じない人達

先日、福島産の桃にまつわる話がありましたが、こちらは東大の早野龍五氏の記事(前半後半)。感情や風説流されること無く、地道にデータを積み上げてそこから得られた数値で評価する姿勢は、いかにも物理学者らしいと言うか、正統派という印象。また、数字だけでは無く、現実を見ることも重視されていて、高校生を連れて廃炉現場を実際に見に行き、数字だけでは語れない部分に関してもちゃんと現実を見せてつぎの世代に判断をさせる下地をちゃんと作るところまで考えられているのは素晴らしい。それって、下手をすると風説に繋がる危険性もあるけれど、だからと言って数字だけで語られて納得できるかというとそれも難しい。定量的な情報も必要だけれど、そこに感情的な話もあるのが常の生活。それを変に自分の意見を押しつけるのでは無く、自ら、特に将来的に一番これらの原発現場と向き合わないといけない若い世代の人達に見せるという判断は、そこまではなかなか出来ないと思いますね。

私は、一応理系の人間だから出来るだけ定量的に説明しようとするし、そうで無くてもビジネスの世界では「数字に説明させる」事が一番重要だから、数字で示すことが大切だと理解しています。ただ、そこにはちょっとトラップがあって、数字というのは出所をちゃんとしていないと、実は簡単に偽装できるというか詐称できるというか、誤解させやすい道具にもなるんですよね。事故直後にも「1mmシーベルト」というとそれ程大したことの無いように感じるのに、同じ値を「1000μシーベルト」と聞くと、とんでもない値のように感じてしまう。当時のメディアは、意図的か偶然か分からないけれど、結構この単位の誤解を招くような記事の書き方をしていた気がする。

単位の統一とか、測定期間の長短、測定方法の適切さに、その値が基準値や境界値とどれだけ乖離しているのか、そう言う客観的な情報が事故直後だけで無く、それから何年たってもメディアに登場し、最近ではある意味その加害者であったメディアが当時の状況を批判していたりするけれど、それって分かってやっているのだろうか。そう言うことを何度もやるから、本来信頼されるべき「数字」すら信用されなくなってしまう現実になっていくんでしょうね。

個人的に不思議に感じるのが、それだけ数字を信用しない人達に限って、数値の裏付けの無い事を不審に思わない。「××産の食材は駄目だけど、○○産は大丈夫」と言うけれど、その○○産は別に放射線の検査をしているわけでも無く、「多分大丈夫だろうけど確証は無い」状態。ちゃんと全数調べて確実に問題無い××産は信用しないのに。勿論、その「○○産」というブランドには、これまで積み上げてきた信用・信頼があるから受け入れるのだろうけど、それすら最近では信じられない事件が発生したりしているわけで、結局はその人の思い込みで判断するしか無い。それはそれで、その人の自己責任だから何を選択しようと自由だと思うけれど、でもその時の指標の一つとして具体的な「数値」があれば、それは凄く信頼性を挙げる安全係数を上げる要素になるはずなんですが。


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